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1651年に熊本藩から薩摩に派遣された密偵の報告書18ヵ条を発見、初期薩摩藩政の実像が明らかに【熊本大】

熊本大学永青文庫研究センターの後藤典子特別研究員は、1651年に熊本藩細川家から薩摩に派遣された密偵の報告書18ヵ条(慶安4年2月27日 村田門左衛門申上覚)の原本を「熊本大学所蔵松井家文書」の中から発見し、同センターの稲葉継陽教授とともに解読を進め、初期鹿児島藩政に関する多くの未知の情報が記載されていることを明らかにした。

 海外と独自の交易関係を維持し、後には明治維新の中心勢力となる鹿児島藩だが、じつは、幕末・明治期の戦禍等によって、鹿児島にあった多くの歴史資料が失われている。今回、初期鹿児島藩政に関する未知の情報を熊本で発見することができた。

17世紀中期鹿児島藩の税制、金山開発、異国船警備、琉球支配、経済・財政状況、さらには、先ごろ御楼門・本丸のあったエリアが国史跡に追加指定されることになった鹿児島城の石垣・門の構築過程や被災の状況、また一向宗の信者を屋久島などへの流刑に処していたことを示す記述は、多くが初めて知られるもの。

さらに、熊本藩から薩摩に密偵が派遣された事情も注目される。17世紀中葉、大航海時代後、特にスペインの日本侵攻の脅威とキリシタン問題などによって、いわゆる鎖国体制へと突入するが、崩壊に瀕した明から数十回に及ぶ日本への援助要請があるなど、その時期、特に九州は対外的な脅威にさらされていた。

こうした中で、琉球及び八重山諸島などを実効支配し、琉球や明との交易を展開していた鹿児島藩に対する警戒から、〝薩摩の抑え〟が熊本藩細川家の重要な役割になっていた。密偵の派遣はこうした状況で行われていた。